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全龍寺/今年は辰年。『龍』にあやかろうと

今年は『龍』の年。月夜見神社に向かう道中たまたま目に入った『龍』の文字。きっと何かしらのパワーで引っ張られたんだろうね。

基本情報

寺院名  : 全龍寺
宗派   : 曹洞宗
山号   ; 瑞光山
正式名称 : 瑞光山全龍寺
住所   : 〒038-3115 青森県つがる市木造蓮川清川1

御朱印  : あり
開山   : 長勝寺十二世徒伯
開基年  : 貞享3年(1686)
御本尊  : 釈迦牟尼仏
その他  : 津軽八十八ヶ所霊場第79番札所

歴史

開山は現在の弘前市にある長勝寺十二世徒伯。
蓮川村を開いた蓮花田村小山内作右衛門が貞享3年に開基。このほかにも同寺早々については、延宝3年に小山内作左衛門によるものとも伝来している。
他にも、越後から来た宗鉄が、弘前の長勝寺十六世の和尚に依頼して開山。津軽藩師であった小山内作左衛門が独力で建立したとも伝わる。
小山内は元禄10年に死去。その子孫は蓮花田で農業を営んでいるという。
文政7年・慶応2年・明治26年に火災にあり焼失している。
現在の庫裏は明治26年に再建。御本堂は明治33年に完成したとのこと。
梵鐘は明和元年・明和8年・弘化3年・昭和38年の4回鋳造されている。
薬師堂は昭和30年に完成。
薬師如来像は、仏教美術の源流と言われるガンダーラ美術の手法を取り入れたモノとのこと。
仏像前の『瑠璃光』の掲額は永平寺の熊沢泰禅貫首が書き、蓮川出身の中野桂樹がノミをふるったもので、寺宝の一つ。
また寺宝の一つとして大般若経六百巻もある。
その昔川沿いは松並木があったとのこと。元禄年間に赤穂義士の快挙になぞり、47本の松が植えられていたとか。戦時中に松根油採取のために伐採され、その一部の名残が境内に残っているとのこと。

青森と赤穂浪士

県内の神社・寺院を参拝していると、時折【赤穂義士】【赤穂浪士】の説明を目にすることがある。
赤穂義士が吉良上野介を襲ったのは吉良邸。その吉良邸があるのは東京の墨田区。
青森と赤穂義士はどんな関係性があったのか?
後の世において【忠臣蔵】の基となった赤穂義士。青森に残る足跡を調べてみよう。

【赤穂義士とは?】
・ 元禄14年(1701)3月14日に、赤穗藩主浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし、徳川第五代目将軍綱吉の命により切腹
・ 相手は吉良義央(上野介)は軽傷だった
・ 本来武家同士のいざこざは慣習により、喧嘩両成敗で何かしらの処分は免れない
・ にもかかわらず吉良側には何の咎めもなかった
・ それを不服とした浅野遺臣四十七名が吉良邸(本所屋敷・現在の墨田区)に討ち入った
・ 討ち入ったのは事件の1年9か月後。元禄15年(1702)12月14日。
・ 事件後吉良義央は、養子である義周に家督を譲り隠居していた
・ 吉良義央は実子の上杉綱憲(米沢藩主)の屋敷などに住んでいた
・ そのことから本来は吉良邸には住んでいないのだが、事件前日に茶会があった。そこを赤穂義士たちにより襲われた
・ その後は幕府裁定で襲撃参加者は切腹処分。元禄16年(1703)2月4日に刑を執行

【青森と赤穂義士】
・ 事件についての簡単なあらましは先に説明したが、いまだに不明な箇所も存在している
・ 弘前藩と赤穂義士の接点はあるのか?
・ 弘前藩四代目藩主である津軽信政は江戸で叔父にあたる津軽信英の勧めで、高名な幣学者である山鹿素行に入門する
・ 素行が津軽家で召し抱える話が出たが、寛文6年(1666)にとある罪により素行は赤穂藩お預けとなる
・ その後素行が赦免されると信政はその一族や門人を接居的に登用。後の『素行派』である
・ 殿中刃傷事件の発端でもある浅野家だが、素行門下生が多かった。津軽藩と赤穂藩は学問によるつながりが強かった
・ 元禄6年(1693)に津軽藩に召し抱えられていた【大石良磨】なる人物がいた。彼は吉良邸討ち入りの首謀者である【大石良雄(大石内蔵助)】の弟である
・ つがる市にある高山稲荷神社も赤穂義士との繋がりがあるとか

【津軽藩と吉良家】
・ 上記の様に津軽藩と赤穂藩は強いつながりがあったことがわかる
・ ただそれだけでなく吉良家との繋がりも強いときた
・ 吉良義央の次女である阿久利は黒石津軽家の第三代目当主である津軽政兕に嫁いでいる
・ 因みに津軽政兕は日本最古の釣り指南書である【何羨録】の著者
・ 吉良家との繋がりを持った経緯は、元々吉良家は儀礼を指南する高家の中でもまとめ役を務める名門だった。津軽家が那須家などの名家との縁組を進めていた中で出来た縁
・ 阿久利は赤穂事件よりも前に亡くなっているが、赤穂義士の討ち入り後に吉良家に最初に駆け付けたのは、津軽政兕だった
・ 駆け付けた後も邸内の遺体の始末や負傷者の手当てもしていたのも津軽政兕

ガンダーラ美術とは?

・ 仏教美術の源流と言われる
・ 538年、飛鳥時代に百済(現在の朝鮮)より仏教が伝来
・ 仏像の制作が始まった
・ 仏像のほほえみはギリシャ彫刻の『アルカイックスマイル』とされている
・ この時代の仏さまの御尊顔はギリシャ彫刻の影響を受けている
・ ギリシャ・シリア・ペルシャ・インドといった様々な美術様式を取り入れたのが【仏教美術】
・ 歴史は深く紀元前50~紀元75年のパルティア治世にまで遡る
・ クシャーナ朝時代の1~5世紀に隆盛を極める
・ 紀元前6~11世紀に存在したガンダーラ王国
・ 仏教を信奉したクシャーナ朝の下で最盛期を迎える
・ マウリヤ朝ペルシアのチャンドラグプタ王の孫にあたるアショーカ王は熱心な仏教徒だった
・ これによりガンダーラには数多くの仏塔が建立されていく
・ 仏教が誕生したインドでは当初、イスラム教徒同様に偶像崇拝を否定していた
・ ギリシャ文明で出会ったことにより、仏像が生み出される
・ それを起源としインドをはじめ、中国・日本へと伝わる。それと同時に【大乗仏教】も誕生した
・ 【兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん)】という頭に鳳凰のついた冠をかぶった像がある。毘沙門天の起源はギリシャ神話のヘルメスという説がある
・ 5世紀に入りエフタルの侵攻によりガンダーラ美術の繁栄は終焉に向かう

御本尊について

【釈迦牟尼仏】
・ しゃかむにぶつ
・ 【牟尼】には『聖者』という意味がある
・ 釈迦族の聖者
・ お釈迦様の尊称
・ お釈迦様は世界三大聖者の一人にして、仏教の開祖にして、インドの釈迦族の王子
・ 釈迦如来

トイレの神様?

参拝後にトイレを使用しようと移動すると、トイレの入り口に視線が…

【烏枢沙摩明王】
・ うすさまみょうおう
・ 密教における明王の一尊
・ 不浄を転じて清浄となす働きを持つ
・ 憤怒尊として炎に包まれている
・ 心の浄化。日々の生活のあらゆる現実的な不浄を浄める功徳がある
・ 炎の仏様
・ 不浄潔金剛
・ 火頭金剛と同一視
・ 古代インド神話の火神・アグニが仏教に取り入れられたとされている
・ 炎の世界に住んでいる。人間界と仏の世界の間にある【火生三昧(かしょうざんまい)】
・ 人間の煩悩が仏の世界に拡がらないように焼き払い浄化している
・ 便所や台所を浄める神様として信仰されている
・ 便所が古くから怨霊の通り道と考えられていた。音量を浄化するために、昔ながらの商家や寺院のトイレでは烏枢沙摩明王の御札が貼られている
・ 天台宗では金剛夜叉明王のかわりに烏枢沙摩明王を五大明王の一尊としている

《真言》
オン・シュリマリママリ・マリシュシュリ・ソワカ

《像容》
・ 一般的に一つの面に三つの目
・ 手は四本
・ それぞれに宝剣・羂索・三鈷杵・棒
・ 一面四臂
・ 全身を火炎で包まれた姿
・ 上記の一方で、2つ目や手が2本・6本など、持ち物も定まっていない

《御利益》
・ 不浄除け、金運上昇
・ 母親の母胎にいる赤ちゃんを男の子にさせる力があるとされる
・ 戦国時代において、男児を求める武将にひろく信仰されていた

御神紋について

【五七の桐】と【久我竜胆】


・ 左側が【五七の桐】
・ 右側が【久我竜胆】
・ 曹洞宗に多いとか
・ 江戸時代は菊の御紋を用いることが許可されていた。明治以降の廃仏毀釈の影響から、菊の御紋の使用が制限
・ 明治4年に大本山永平寺の久我環渓禅師の影響で、明治8年より【久我竜胆】使用されるようになる
・ ひとつの説として、大本山總持寺は後醍醐天皇との結びつきがあり、菊の御紋の裏紋である【五七の桐】を選択したといわれている
・ 曹洞宗の制度に定められたのは近代以降とされている
・ 大本山永平寺では久我竜胆
・ 大本山總持寺は五七の桐
・ 二つ合わせて【両山紋】として用いられている

境内の様子

【門・その周り】
・ 屋根などは無く普通の門
・ 【曹洞宗 全龍寺】
・ 門の手前に立派な石燈籠が2基ある
・ 門から向かって左側には【六地蔵】
・ にこやかな笑顔のお地蔵様が並ぶ
・ 反対の右側には【開創 三百年記念】の石碑
・ 字の端々から雪解け水が垂れている。それが味のある字体の雰囲気を出している

【観音様】
・ 福寿観音
・ 慈悲深く、優しそうな御尊顔
・ 左手に持っているのは『福寿草』
・ 福寿草は『福寿・幸福・長寿』
・ 【寿】「長生きを表す。長生きをすると、その部のもいでも多くなる。その思い出を振り返り、幸福な気持ちになる」
・ 福寿草の花言葉に『回想・思い出』となるのは上記から

【大樹の切株?】
・ 切株っぽいものが祀られていた
・ 戦時中に存在していた松の木の名残らしい
・ 大切にされているらしく、しっかりとした2本の柱と屋根があり囲われていた
・ 一見すると大きなマイタケに見えてしまった

【鐘楼】
・ 門近くにある
・ 浄仙寺のように鳴らせない
・ 石垣っぽいものの上に四脚で建っている
・ お寺の規模に比べて大き目の鐘

【御社殿】
階層   : 平屋
材質   : 木造
建築様式 : 入母屋造
屋根の特徴: 平入
屋根の材質: 鉄板葺
宮彫り  : 龍
木鼻   : 獅子
・ 千鳥破風。懸魚あり。雲の形の桁隠しも見える
・ 屋根の色は緑青に変色しているが、味がありかっこいい
・ 昔ながらも西方の屋根に、しっかりと雪止めが付いている。豪雪地帯ならではのもの
・ 「頭上落雪注意」という注意書きもある
・ 今年は雪が少ないとはいえ、参拝中に何度か雪が落ちてきていた
・ 貫の上の宮彫りには龍。寺院の名前も龍が入っている。さらには今年は辰年。縁起が良い場所かもしれない
・ 寺院の前は川が流れている。それほど水かさは多くは無いが、水害から守るためにも龍神様がいるのかもしれない
・ 木鼻は獅子なのだが、味方によっては龍にも見える不思議
・ 毛並みの流れが、龍の髪に見えるからだろうか?

【御拝殿】
・ 中に御邪魔すると、お釈迦様の足跡がある。とりあえず拝んで置こう
・ 大きな提灯が下がっているが、こちらは【全竜寺】になっている
・ 見た目は怖いが【賓頭慮様】もお出迎え。笑顔と福耳にあやかりたい
・ 中は広々空間。モノが散乱しておらず、整理整頓されている
・ 宗派は違えど拝む気持ちは変わらず。正面から拝む
・ 外は寒かったが中は良い温度で拝みやすかった

御朱印について

・ あり
・ 津軽八十八ヶ所霊場第79番札所
・ 御拝殿を正面に、右手に寺務所に続く玄関がある
・ 初穂料は300円

まとめ・感想

元々は当寺院の近くにある『蓮川観音堂』がある【月夜見神社】を探していた時に、【龍】の字に引かれて来訪。
辰年ということもあって余計に注目したのかもしれないが…。歴史も深く、さらには赤穂義士との繋がりもあるということに興味が引かれた。また聞くとことによると、観音堂も近いということもあり、せっかくなら参拝していこう!


色々な寺院を訪問・参拝してきたが、烏枢沙摩明王なる仏様に出会えることができた。
寺院内外共に広々とした空間を保っている。ごちゃごちゃしたり、整理整頓がなされていないということもない場所だった。有人でも温かみが感じられない、ということもなかった。
寺院前の車道は以外にも車通りが多かった。しかし喧騒が生じるわけでもなく、自然とそこに溶け込んだようにゆったりとした余裕を感じさせるような雰囲気の中で参拝できた。
因みに本来の目的である蓮川観音堂はここより、徒歩数分のところにあるという…。今度こそ無事に着けることを願い、観音堂を目指すことに。

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