神職の装束と服制
『装束』とはなにか?
装束とは何か?
装束を簡単に説明するならば、【長い日本の歴史において、連綿と受け継がれた、格式ある衣類】を指すと思われる。
主に宮中や公家社会で用いられた衣類。
そうした衣食住の世界においての約束事として『有職故実』と呼ばれるものがある。
武家社会においても宮廷社会はあこがれの的であり、武家中心の幕府においても『柳営故実』が生まれ、重んじられている。
⇒日本の服装の歴史の中心に『装束』は存在する。
日本における『装束』のはじまり
『装束』というものがどういうものなのかを理解していただいた上で、日本と言う国における『装束』の始まりはいつになるのか?
歴史のひもをほどくと、日本においての装束の始まりは5~6世紀ごろではないかと考えられている。
埴輪などの発掘品から当時の男女の服装がわかってきている。
・ 男性はズボンのような袴。
・ 女性はスカートのようなもので、【裳】と言うものを身に付けていた。
意外に思われるが、現代風の服装に似ている。
【裳】→腰から下を覆うものでスカート状のモノ。腰の部分で止めていた。
公式に服装の決まり事や制度ができたのは、推古天皇11年(603)から。
どの日本史の教科書にも出てくる有名な制度、『冠位十二階の制定』からと言われている。
身分に応じた冠の色を定めていた。これにより直ぐにその人物の身分が証明できていた為、現代風に言うと身分証明書と言ったところか。
これ以降は時代の変遷とともに服装の様相も変化していくことになる。
神職の服制
江戸時代までは神職の服制は、京都の吉田家の管轄下にあった。
寛文5年(1665)に幕府が制定した『諸社禰宜神法度』ができ、この法令を基に吉田家の免許により江戸時代の神職装束は決定されていた。
(例)無位神職→【白張】(平安時代の無位無官の装束)
江戸時代が終わり明治に時代になると、明治5年(1872)に服制大改革を行う。しかしそれまでは吉田家の管轄だったのが、そこから離れたことによる混乱が生じるようになる。
明治政府は神事の祭服として【衣冠】を指定する。
衣冠装束を持たない神職も多かった。
翌年には【狩衣・直垂・浄衣】でも良い、というお触れに修正する。
明治27年(1894)まで、神職の服装については紆余曲折していく。
明治27年に『神官神職服制』が制定されると混乱は落ち着く。
・ 正服 : 衣冠単
・ 略服 : 狩衣
・ 斎服 : 新しくできた服制・衣冠に類似。(現在は礼装)
斎服は身分にかかわらず全員が同じ装束。
現在の規定では大祭に次ぐ中祭で着用する。
【狩衣】は文字通りに『狩の時に着用した衣類』『狩に適した衣類』という説明ができる。
平安時代から民間で用いられた狩装束である。
簡便さと軽快さから公家にも取り入れられ、日常着として用いられるようになる。
あくまでも日常着のため、宮中などに参殿する際には着用されなかった。例外としては【体を動かす時】は宮中でも着用が認められており、主に蹴鞠の際には着用されていた。
武家社会になると、公家社会における狩衣とは違う用いられ方をしていた。
公家社会では参殿する際の着用は認められなかったが、武家社会では束帯に次ぐ【礼装】だった。特に室町時代以降にはその傾向は強まり、武家社会における特有の服制が作られるようになっていく。
明治以降は狩衣は礼装からは外されるが、神職の【正装】として用いられていく。
現在における装束
現代日本において装束を日常的に着用しているのは誰かと言うと、神社の神職となる。
現在神社は宗教法人になっている。
法人化にあたり、正装・常装の服制の制度も見直されている。
また明治時代以降は女性の神職は居なく、男性のみの職種だった。
現在は女性の神職の制度や服制も定められている。
【男性の神職】
特級 : 白 ・ 藤丸大文
一級 : 紫緯白 ・ 藤丸文
二級上 : 紫緯薄 ・ 藤丸文
二級 : 紫無文
三・四級 : 浅葱無文
【女性神職】
正装 : 袿袴
礼装 : 白袿袴
単装 : 水干
昭和63年(1988)に江戸時代の采女装束を参考とした専用の装束が誕生している。
まとめ
神社の神職と言えば神主さんや巫女さんを思い浮かべることが多い。
神主さんや巫女さんの服装だけが、神職に携わる方々の装束ではないということ。色々な場面で使い分ける制服のようなものだと筆者は考える。
神社の見どころは鳥居や拝殿、狛犬などの施設に目が行きがちではある。
しかし有人の神社でもしも神職の方々を目にしたとき、何かしらの儀式を取り行っているときなどに、神職の方々の服装に注目していただきたい。
通常時の装束とは違う装束を着用していることがある。
御朱印等を通して神社に参拝・好きになる人もいると思うが、筆者みたいに装束やその背景の歴史から入る変人がもっと増えてもいいと思う。