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【黒石神社】青森県黒石市

御由緒・歴史

 黒石藩藩祖・津軽信英公は弘前藩二代目藩主である津軽信牧公の次男にあたる。母親は徳川家康の養女である満天姫。
はじめ幕府の小姓組藩士として出仕。後に蔵米300俵を給されていた。明暦2年(1656)に後の名君と歌われる弘前藩四代藩主津軽信政は11歳の幼年だったため、信英公は幕府からの命令により、彼の後見役となり弘前城にて諸政を司った。
同年の8月に信英公は黒石・平内・津軽為信公が徳川家康から拝領した上野国勢多郡5千石を分知された。また同時に陣矢を立てて町割りを行い、黒石藩の礎を築いた。
文化6年(1809)に、八代目津軽親足の時代に、一万石増封されて大名となる。
 信英公は幼少期より文武に励み、当代一流の軍学者・山鹿素行の高弟として様々なことを学ぶ。兵学・武術、そのほかの師匠から文学を学び、諸芸に通じ、良政を敷いき、黒石藩の発展は多くの諸大名の間でも高く評価されていた。
信英公は生前より儒道を嗜み、その道の造詣深かった。
明治維新後は旧士族は彼の御遺徳に敬意をはらい、明治12年に神祭願いを県令に提出。許可を得て郷社に列せられる。明治15年に県社に昇格するが、大戦後に社格は廃止された。
                             ※(参拝のしおり参考させていただきました)

御祭神

津軽黒石藩祖 津軽十郎左衛門信英の霊

御創建

寛文二年(1662)創建。
明治12年郷社に。
明治15年に県社に昇格。

黒石藩の旗印

合験は『ふつ』と読む。
意味は【臣民が悪に背き、善に向かう】という意味がある。
黒石神社の社紋であり、現在の黒石市の市章でもある。

御朱印の有無

御朱印有り。
黒石陣屋の御城印も頂ける。

狛犬の様子

神社の雰囲気

 街中より少し離れた場所に鎮座されている神社。
街中より少し外れただけなのに、雑踏などの喧騒は無く静か。周りを木々に囲まれているが、木々の隙間から入る光により暗い・鬱蒼としたものは感じられない。

鳥居から神門までは直ぐだが、雰囲気はがらりと様相が変わる。
まず鳥居は太陽が燦燦と輝く下にあることで明るく、俗世と神域とを分けるのに視覚的にもしっかりと分けてくださる。そして狛犬が守る神門の向こうは、それまでの強い光は入らず、木々の間からこぼれる光により、どこか神聖なものを感じずにはいられない。
【ここから先には数百年も昔に、黒石の礎を築き上げた名君が眠り、今までもこれからも黒石を見守ってくださる人物が眠っています】
というものを無言で表現してくださるような雰囲気を感じさせてくださる。

また黒石神社の摂社はとても有名なものである。元々は弘前にあったものだ。
黒石神社の摂社は『東照宮』である。
先の御由緒・歴史の中でも触れているが、黒石藩藩祖の津軽信英公の母親は、満天姫と言う。
この方はある人物の養女にあたる。
誰か?
徳川家康公である。
徳川家と縁戚関係にある諸大名が江戸時代に東照宮を各地に建てている。700社を超える数だったが、明治以降の廃仏毀釈により130社にまで減少している。
 しかし弘前の東照宮は全国に先駆けて創建されたものだった。満天姫が嫁いだ縁によるもの。
本来は弘前にあるはずの東照宮が黒石にあるのか?
これについては次の記事で触れていきたいと思う。

住所

青森県黒石市市ノ町18

 近くにはこみせ通と呼ばれる通りがある。昔ながらの街並みが見れる。
観光客も多いので車で観光の場合は市役所や近くの駐車スペースに止めて散策してもいいと思う。

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